備前:香登パワースポット「岩長姫神社」

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石長姫神社(いわながひめじんじゃ)備前市香登西276
社格:旧村社
主祭神:磐長姫
【神格】岩の神・寿命長久の神
【御利益】縁切り・延命長寿
【別称】石長比売命
例祭:10月23日
境内地:329坪
宮司:吉田重敏
由来沿革:創建年代不詳。寛和二年再興。元大将と奉称したが、明治二年三月管許を得て、石長姫神社と改称した。
主要建物:本殿・幣殿・拝殿・随身問・社門・倉庫
摂末社:(西側から)荒神社・天神社・虫神社・祇園神社・稲荷神社

社日塔:(地神さま・地神碑・五角柱) 神名は天照皇太神/少彦名命/大己貴命/埴安媛命/倉稲魂命この設置は、「天照皇太神」を、正規の方位「北」向きに、鎮座させてある。
   岡山県備前市では、2017.07.03現在確認済みで、「岡山県備前市木谷(山田原)」との二例目である。厳密に守られて設置されている。

 磐長姫(イワナガヒメ)
【真の豊かさを持つ神様】
イワナガヒメと言えば絶世の美女、コノハナサクヤヒメの姉妹でニニギノミコトに一緒に嫁がせたが女神。 しかし、容姿が醜かった為にひとり帰される。 コノハナサクヤヒメは桜の様に華やかだが、桜のように咲き、桜のように散る。 その命は短命で限りあるもの。 イワナガヒメの容姿は醜いが、その命は岩のように長く栄える。 ニニギノミコトは容姿だけに気を取られ、イワナガヒメの本質を見抜くことはできなかった。 イワナガヒメの父であるオオヤマヅミの元へ帰してしまったのである。 その事で私達の命は限りあるものになり、人類の寿命が出来たと言われている。 若い頃は周りの目が気になり、見た目や立ち振る舞いなど自己主張をしたがるもの。 また、若者は自己主張するものに気を奪われ憧れやすい。 だから、周りのことを考えすぎたり、穏やかなままだと、自己主張するものだけが得をし、周りを活かせば活かすほど損をしてしまう。 しかし、歳を重ねるごとに周りとの協調性や人を活かすことの出来る者のところへ、人は集まるようになる。 見た目の美しさは歳を重ねるたびに劣化するもの。 しかし、心の美しさは歳を重ねるたびに豊かになる。 その豊かさは表情に現れる。 決して人にチヤホヤされるわけでは無いが、その人の生きざまや言葉に救われる人が沢山出てくる。 つまり、その豊かさは岩のように死ぬまで衰えることは無いのだ。 その意思を子供達が見習い、岩に苔が生えるように永遠と栄えた。 君が代にある苔のむすまでとは、その様な事なのである。 人は若い頃だけでは無い。 また、表面だけの美しさだけでも無い。 人生を豊かにするものは内面の美しさである。 その美しさが社会を作り、平和な世の中を作る。 父の元へ帰されたイワナガヒメは心乱す事はなかった。 もし、損をしたと感じても自分を信じ、善に心を留める。 苔が生えるまではその時を有するのかもしれない。


§1、
しゃにち【社日 shè rì】
中国において社(土地神)を祭る祝日をいう。一般に春秋2回行われるが,その日は時代によって異なる。
唐代には,立春(立秋)後,第5番目の戊(つちのえ)の日である。
村人たちはみな仕事を休んで叢林中の祠に集まり,酒肉をそなえた後,その供え物で飲み食いし,一日を楽しんだ。神楽(かぐら)も盛んに奏された。
春社には五穀の豊作を祈願し,秋社には収穫の感謝と来年の農作物の占いが行われた。
この社祭は元代に廃止され,急速に衰える。 県内どこに行っても地神さんは五角柱。そして刻まれた神様の名前は同じ。
なぜ地神さんはこれほどまでに「規格化」されているのでしょうか。
まるでどこかに地神さん製造メーカーがあったかのように。

実は、地神塔造立にあたり、あるテキスト(神道書)が参照されたようなのです。
天明元年(1781)序文の大江匡弼『神仙霊章春秋社日醮儀』。
地神信仰の本義、地神塔の形式、地神祭の祭式などが詳しく述べられています。

実際に各地の地神さんを調べてみるとわかることですが、
「心石は五角柱」「天照大神以下、定められた五柱の神名を順に刻む」点は、厳密に守られています。

地神さんは原則として「天照皇太神」が北を向くように立てられています。
これも『社日醮儀』に書いてある通りです。
方位磁針がなくても、地神さんを見れば方位がわかりますww

神々の名が刻まれた心石の部分は、マニュアル通りに製造。
しかしその他の部分(台石、箱石、周囲の囲いなど)の形状は、地域ごとにまちまちです。
心石こそが、地神さんのもっとも重要な心臓部と見なされていたことがわかります。

§2、
社日(春分、秋分の日)に祭祀を行う信仰に基づくものです。
 主に五角柱に五柱の神名を刻むことが多く、六角柱のものもありますが、一面には願文などが彫られているようです。
 神名は天照大神/少彦名命/大己貴命/埴安媛命/倉稲魂命となっています。
 神名の内、倉稲魂命は蒼稲魂命、稲倉魂命と書くことも。

この社日信仰は大江匡弼(オオエ・タダスケ)という神仙道学者らしき人が天明年間(1780~)に書いた「春秋社日醮儀」(しゅんじゅうしゃにちしょうぎ)から始まっているそうです。
 「春秋社日醮儀」には、春秋の社日ごとに祭祀を行えば「天下泰平国家安寧五穀成熟萬穀豊饒家門繁昌子孫長久無病息災金銀米銭珍貨奇寳充満せんて掌をかえすより易い」とし、塚を作る際は東西南北で土の色を変えろとか、こういう形にしなさいとか、儀軌的な事が色々と書かれています。

 庚申信仰も同じですが、暦がしっかりしていないとできない信仰ですので、江戸時代になって一般も自由に暦を購入できるようになったことが、信仰の広まりを支えるインフラになっていたのでしょう。
 相模国は三島暦をずっと使っていました。

なお、驚くことに神奈川の社日塔は「春秋社日醮儀」が京で上梓されてから数年で造塔されているそうです。大江匡弼がどれくらい影響力のあった学者か知らないのですが、「春秋社日醮儀」を読んだ宗教家がすぐに持ち込んだのでしょう。
この伝播力の速さと広まり方は庚申信仰も同じだったのでは、と想像させてくれます。.
撮影日:2017(29)07.03
カメラ:CASIO EXILIM EX-ZR850

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